禅の開祖 達磨大師と武帝との問答
普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。
当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。
梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。
武帝は達磨に質問をする。
帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
師は言った。「どれも功徳はありません。」
帝は言った。「どうして功徳がないのか。」
師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」
帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」
答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」
帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」
師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」
帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」
師は言った。「認識できません。」
帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、ひそかに江北に帰った。
菩提達磨は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。
達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。
「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている。
Wikipediaより
精神が主で物質は従であるということ。
精神は物質ではないから「そもそも空」
脳の認識情報の解釈がその人の現実世界。解釈により現実は異なる。
脳が認識する情報そのものを解釈する前に解釈の意味は存在していない。
これを達磨は「がらんどう」と言っている。