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Mackenつれづれ日記
ミリン・ダヨー(Mirin Dajo)不死身の身体をもつ男・2

ミリン・ダヨ(本名:アーノルド・ヘンスケンズ)は1912年、オランダのロッテルダムで生まれた。若い頃は"ノル(Nol)"の愛称で呼ばれ、デザイン会社のチーフになるなど、早くから様々な才能を発揮させたが、20代のうちは言わば普通の人と変わらない、平凡な日々を送っていた。しかしそんな仕事を続けている一方で、ダヨは度々奇妙な体験をするようになっていった。

ある晩のこと、ダヨは故人である姪のビジョンを見るようになり、彼女の姿をスケッチした。またある時から故人の伯母の姿を見るようになり、その姿を描き出したこともあった(その伯母は生涯南アフリカで暮らし、ダヨは一度も会ったことがなかったが、後に写真と照合したところ、うり二つであったという)。朝、ダヨがベッドで目を覚ますと、シーツやダヨの寝巻きが、絵の具で汚れ、スタジオが散らかっていたこともあった。本人は気づかないまま、まるで眠っている間に絵を描いていたかのようにである。ただし、こうした現象はしばしば聞かれるものであり、特に珍しいものではないのかもしれない(特に”芸術家”と呼ばれる人々にとっては)。しかし、そんな生活を続け、33歳になったばかりのある日、ダヨに決定的な転機が訪れた。ダヨは自分の身体が、何者にも傷つけることのできない、"不死身"の身体になっていることに気がついたのである。

ダヨ自身、はじめはこの自分の身体の変化にひどく動揺したに違いない。毎晩起こる奇妙な体験、そして日頃のデザイン会社での重責から、心理的に不安定な状態となり、自分が奇妙な妄想に至っているのではないかと不安になった。こんな事を家族や人に喋ったところで、誰も信じてくれようもないことは明らかだったからだ。一体世間にこの事実を知ってもらうにはどうしたら良いのか?ダヨは考えた末に、仕事を辞めることにした。そして単身、アムステルダムへと渡ったのである。

mdajo5.jpgアムステルダムで暮らし始めたダヨには、まず何より金が必要だった。そこでダヨは手っ取り早く金を稼ぐために、毎晩パブを訪れ、人々に短剣を手渡し、それで自分の背中を突き刺させるという過激なパフォーマンスをはじめた。その姿はまるで一人サイドショーとでも言うべきものだったが、そのおかげでダヨはどうにか糊口をしのぐことが出来るようになった。結局、「不死身の身体であることに気づいたから」という訳の分からない事を家族に言えるはずもなく、ダヨは、誰のサポートもなく、新たな町で、まさに身体一つで新たな生活を始めたのである。

アムステルダムでの暮らしにも慣れ始めた頃、ダヨはその過激な"ボディ・ピアシング"で徐々に有名になっていったが、やはり短剣で身体を突き刺させるパフォーマンスは、町中のパブでは刺激が強すぎたのかもしれない。多くのショーパフォーマンスは、主にガラスとカミソリの刃を食べるというものだったという(後にダヨは、それらの物体を食べたとき、物体は普通に体内を経過するのではなく、"非統合"、もしくは"非物質化"される、と語っている)。

彼が自分のことを"ミリン・ダヨ(Mirin Dajo)"と名乗るようになったのもこの頃からである。アムステルダムに渡って以来、しばらくの間は愛称のノル(Nol)という名前でショーを行っていたが、"世界は一つである"という彼の思想から、エスペラント語(1887年に提唱された国際共通言語)で"素晴らしい(Wonderful)"を意味する"Mirin Dajo"をその名としたのである。

かくしてダヨの名声 ? それは悪名とも言えるかもしれない ? は世間に広まっていったが、ダヨ自身は単に巷に溢れる「びっくり人間」の一員になりたいわけではなかった。ダヨはパフォーマンスを通じて、人々が現実として受容している以上のものが、確かに世界に存在することを、伝えたかったのである。事実、彼にとってその肉体のパフォーマンスは第一幕に過ぎなかった。ショーの第二幕になると、彼は説教をはじめ、人々に唯物主義的な考え方を捨てるべきであるということ、そしてこの世界には、人間の理解を超えた高次の力が存在することを知るべきであると人々に訴えていた。そしてまた高次の力とは即ち神であり、自分のこの不死身の身体を通じて、神がその存在を示していること、そして世界平和を訴え、唯物主義的な思想が世界を戦争と不幸に導いていると説いたのだった。

ダヨは来る日も来る日も、パブでのパフォーマンスを続けていたが、その名が広まるにつれ、自分をマネージメントするエージェントが必要な時期になっていることを自覚しはじめていた。それはもちろん、より有名になりたかったからではなく、むしろより多くの人々にそのメッセージを伝えたかったからである。彼は自分の”教会”となるべきショーシアターを探し求め、遂にエンターテイメント業界のエージェントと知りあう機会に恵まれた。しかしプロの興行師に会って初めて知らされたのは、公の面前でパフォーマンスを行うには、まず医師の許可が必要だということだったのである。そこでダヨは、許可を取るべく、レイデンの大学へと赴き、そこで自分の身体を科学者に検査してもらうことになったのだった。

検査の結果、医師たちは首を捻りながらも彼に許可を与えた。しかし、それは小さいクラブ内でのみ、という制限付きのものだった。多分、彼のパフォーマンスが過激すぎたからだろう。更に与えられたライセンスはあくまでもパフォーマンスを許可するだけのものであり、説教を行うことは禁止されてしまった。このことがダヨに大きなフラストレーションを与えたことは言うまでもない。彼にとってその”身体の驚異”は人々を啓蒙する”きっかけ”に過ぎず、ショーの後で語られるスピーチこそが、彼が望んでいたパフォーマンスだったからである。そのような経緯でアムステルダムに幻滅したダヨは、スイスへと渡った。しかしそこでも結果は同じだった。スイスの医師に検査を受け、ダヨが与えられたライセンスは、またしても厳しい制限付きのものだったのだ。

 

ダヨー その1、その2、その3

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