ケニアの食事
ウガリ
(スワヒリ語:Ugali)は、穀物の粉を湯で練り上げたアフリカ伝統の食品である。
ケニアなどアフリカ東部や南部で主食として広く食されている。
モロコシやトウジンビエといったアフリカ起源の穀物が用いられている。
ウガリは、コーンミールやキャッサバの粉を湯で練って作る。水分を含ませる度合いによって団子状から粥状のものまでさまざまなバリエーションがある。
一般的には小さくボール状にまとめて肉や野菜のスープにつけて食べたり、硬く作ったウガリにスープをかけてスプーンやナイフとフォークで食べることもある。また、ウガリをスプーン状にまとめ、おかずをすくって食べる例もある。味は「味のないおからのよう」と形容されるが、食べなれてくると穀物自体の味があるのがわかるようになるという。この点でもご飯に似ている。
Pilau(ピラウ)
ピラウという料理名はトルコ料理として有名ですが、ピラフの語源でもあり、中東地域だけでなくギリシャやアフリカでも食べられています。
ケニアではコシヒカリも栽培されているらしい。
Nyama Choma、ニャマチョマ
ニャマチャマは、 ケニアでは非常に人気があります - それはタンザニアでも国家料理 1 とみなされています - 焼きヤギ肉の専門です。 nyama chomaという表現は、 Kiswahili 2 「 バーベキュー肉」を意味します。
本物のニヤマチャマは塩とコショウを加えるだけ。
タマネギ、ニンニク、ジンジャー、マリネ、唐辛子、レモンで味付けする。
ナイロビは涼しそうだ。
ナイロビ(英語/スワヒリ語: Nairobi)は、ケニア共和国の首都で最大の都市。
観光
ナイロビ市街をバックに立つキリン(ナイロビ国立公園)
ナイロビには多くの観光名所があり、またケニア観光の拠点ともなっている。
ナイロビ中心部にはニュー・セントラル・バンク・タワーやケニヤッタ国際会議場といった高層ビルが立ち並び、上に登ればナイロビ市街を一望することができる。中心部の北には1930年設立のケニア国立博物館があり、ケニアで発見されたアウストラロピテクスの化石などが展示されている。その向かいにはヘビ公園がある。中心部の南には、キリンに直接えさを与えられるキリン公園がある。南西部郊外には、ケニア各民族の伝統家屋や伝統文化を展示するボーマスオブケニアや、ナイロビで暮らし「アフリカの日々」(Out of Africa, 1937年、映画『愛と哀しみの果て』の原作)などの作品を残したデンマークの女流作家カレン・ブリクセンの住居を博物館としたカレン・ブリクセン博物館などがある。また、市の中心部から10kmほど南、ジョモ・ケニヤッタ国際空港のすぐそばにはナイロビ国立公園があり[32]、アフリカの自然を手軽に楽しむことができる。
ナイロビ南西には景勝地ンゴングヒルズがある。また、ナイロビの北88kmにあるナイバシャ湖とヘルズ・ゲート国立公園や、南のマガディ湖などは日帰り圏内であり、ナイロビが観光拠点となっている。
これらの観光資源のほか、ケニア国内のサファリやケニア山などの登山を楽しむ外国人観光客もナイロビを拠点とすることが多く、また国連関係はじめ多くの国際機関が存在することから、ナイロビには多くのホテルが立ち並んでいる。
・気候
アフリカ大陸の東、南緯1度16分、東経30度53分に位置し、市の面積は696km2である。
標高は1795mである。
アフリカ大地溝帯の東端に接しているため、小さな地震や火山性の微動がときおり発生する。市の西部にはかつての死火山の跡であるンゴングヒルズがある。
ンゴングヒルズはナイロビでもっとも特徴的な地形であり、標高は2000mを越え、ナイロビ市街を一望することができる。
ナイロビの北にはケニア山、南東にはキリマンジャロ山があり、どちらも晴れてよく澄んだ空の日には市街から眺めることができる。
高地に位置しているため、赤道からわずか南に150km離れているだけのほぼ赤道直下にありながら快適に過ごすことができる。
ケッペンの気候区分においては温帯夏雨気候 (Cwb) に属する。6月から7月にかけては最も気温が下がり、夜には気温が10度を切ることもある。
12月から3月までは日照時間が長く、暖かくなる。日中の気温は25度前後まで上がる。
最高気温は2月と3月が平均26℃と高く、7月と8月が21℃と低くなるが、概して年間通じて気温の変化は少なく穏やかな気候である。
1年に2回の雨季と2回の乾季があるが、雨季の降雨も穏やかなものである。
雨は11月と4月・5月に多く、1月から2月と6月から9月は少ない。
日の出と日没の時間は赤道直下のためほとんど変動しない。
・都市
アフリカ有数の世界都市であり、2010年の都市的地域の人口は336万人であり、世界第99位。
赤道に近いが標高約1600mに位置し気候は比較的冷涼である。
主要な言語は、スワヒリ語と英語。ナイロビ (Nairobi) という名前は、マサイ語で「冷たい水の場所(place of cool waters)」を意味するEnkare Nairobiに由来する。
東アフリカの中心的都市として、多くの国際機関が本部あるいはアフリカの代表部などを置く。なかでも国際連合は、国連環境計画 (UNEP) や国際連合人間居住計画 (UN-HABITAT) の本部をナイロビに置き、さらにこの2機関の活動を支援するため1996年に国連事務局の四つの主要事務所の一つとして国際連合ナイロビ事務局を設立し、ナイロビを重要拠点都市のひとつとしている。
白人の首都
その後、交通の要衝にあり、良い気候と水に恵まれ、さらに肥沃な農業地帯の中心に位置することから移住者が増え、1907年にイギリスの保護領であったイギリス領東アフリカの首都となった。
この頃にはイギリス本国からケニアへの移住者が増加していたが、彼らは気候のいい高原部に集中して入植し、「ホワイト・ハイランド」(白人高原)を形成していったため、高原地帯の中心に当たるナイロビには多数の白人が居住するようになった。
また、インド人と黒人の居住区も同時に形成されていった。
この都市はアフリカ人による歴史を持たず、最初から白人によって建設された都市であったため、特に白人が快適なように作られており、この三民族の居住区も明確に分けられ、市の西部に広々とした区画で作られた白人居住区に対し、市の東部に広がる黒人居住区は劣悪な環境の下に置かれた。
1920年代には農産物加工やビール製造などの工業が発達を始め、これにより出現した工場労働者たちが都市に流入し、ナイロビはより発展のスピードを増していった。周囲で大農園を営む白人たちの中には本国で貴族や富裕層だったものも多く、ナイロビには小さな白人上流社会が出現した。
・水不足
ナイロビの水の94%は市の北にあるAberdare山系から供給される。中でも最も重要な供給源はティカ・ダムである。しかし、取水された水のうち40%は配水中に失われてしまい、水道に接続している消費者のうち水の供給が受けられるのはわずか40%にすぎない。スラムには水道水の供給がほとんどないために、幸運にも水道水の供給を受けられるものや水売りから水を買わざるを得ず、水道料金よりもはるかに高い水代を払わねばならない。
停電も多く、住宅供給は間に合わずに市の人口の60%が可住地の5%に過ぎないスラムに住む事態となった。
公共交通機関も十分ではなく、公営バスの不足の隙間を埋める形で1960年代よりマタトゥ(ミニバス、乗り合いタクシー)の普及が急速に進んだ。一方でモータリゼーションの進行によって自動車の数は大幅に増え、交通渋滞が激しさを増しており、大気汚染もはじまっている。
空路
ケニヤッタ国際空港
外国からの窓口として、1958年に建設され、市の中心部より15km南東にあるジョモ・ケニヤッタ国際空港がある
鉄道
植民地時代に建設されたウガンダ鉄道のナイロビ駅がある。かつては、モンバサ駅行きの列車が週に数便出ており、所要時間は1日以上かかるものであった。近郊路線としての機能はない。
2017年に中国の出資で近代化が図られ、マダラカ・エクスプレスとして再出発。所要時間は4時間半に短縮されたが、旅客扱いの有無は不明[29]。これをさらにウガンダから南スーダンまで延伸する契約を東アフリカ諸国は中国と交わしている[30][31]。
道路
旧宗主国のイギリスと同じく、自動車は左側通行。モンバサからウガンダ国境へ抜ける国道が幹線で、市内を貫いている。中心部では片側2車線である。
市内中心部の道路はほぼ舗装されているが、舗装の傷みの激しい場所もある。信号機は数が少なく、交差点の交通の整理はイギリス式にラウンドアバウト(ロータリー)でなされている。
Wikipediaより |