女王トヨの後、しばらくは国が安定を保ったが、邪馬台国はだんだん分裂をしていった。
九州の大和族(アマテラス族)神武が東征し、戦いに苦労するが、結果的に大和の地に入り、先住の出雲族、海部氏一族、縄文人との戦いに勝ち、王権を成立していった。
神武が大和に入り勢力を固めるために、旧体制派中で主流派の海部氏や尾張氏の取り込みを考えた。そのために、事実上の婚姻関係を結びながら、祖先の系譜からも同じ祖先から分かれたことに して、系図を書き換えた。海部氏らの祖神の「アマノホアカリ」を天皇家の祖ニニギの兄弟とした。
・崇神が国を治めるようになると、疫病がはやり、飢饉により大勢が死んだ。
トヨに祈らさせる と、三輪山に「大物主」を祀るように託宣が降り、もともと三輪山で祭祀をしていた一族の子孫である、太田田根子(縄文人か出雲族かまたは両方の血を持つ者?)を探し出し、祀ると、疫病や 飢饉は治まり、世は平穏になった。
崇神は初代トヨ達の祭祀能力を疑って、初代トヨやトヨに従う巫女たちを殺し、霊力の強いトヨからの祟りを恐れて、巨大な墳墓である箸墓古墳を造り封印した。崇神は初代トヨ達が祀っていた、「アマテラス」神の祟りをも恐れて、トヨの親族の一人である、豊鍬入姫に宮中の外で祀るように言いつけ、結果的に倭国(ヤマトノクニ:奈良の小さな国)の笠縫邑で祀るようになった。
しかし、「アマテラス」神は落ち着かず、次には丹後の籠神社(真名井:元伊勢)に移り、90年間の流浪変転を経てして最後に現在の伊勢に落ち着いた。
・伊勢には海の民で同族の渡会氏がいて、アマテラスを祀ることが出来たのだ。
現在の内宮に移したのは、天武天皇。壬申の乱(672年)の時に加勢し全面的に支援してくれたのが海の民尾張氏であったために、彼らからの強請により「アマテラス」を復活した。
ただし、アマテル(男神)には祟り神のレッテル(疫病が流行り宮中の外で祀る)が貼られていたために、古代の太陽神を祀る巫女である卑弥呼のイメージをヒントに太陽の女神を造りだし、「アマテラス・オオミ カミ」という 女神を編み出した。
よって、「アマテラス」大神は作り出された神のため、 当初は繋がるこ とができる神官はいなかった。その名の神が不在のため託宣はおりないためだ。
天皇家では、天武天皇の妻で後継者の持統天皇が参拝して以来、明治天皇が参拝するまで1200年間は天皇家での参拝は行われていなかった。
持統天皇はそれまでの、三輪山の神に参拝していたしきたりを破り、伊勢への参拝を強行した。
この時に「天照大神」を天皇家の祖とし、各地の神をアマテラスと関連付け、体系化していった。
体系化の根拠として制作したのが、「古事記」や「日本書紀」である。
・よって、「天照大神」を祀る神道は、天武天皇の時に始まった。
・現在の「天照大神」に祈っても、太陽と繋がることはできない。 |